美しさというもの

2002年8月10日
「人の美しさというものは、目で見えるところではなく、その内なるところにあるものによって決まるのではなかろうか。」

仕事柄、ふと素晴らしい文章に出会うことがある。
小学生、中学生に読ませる文章中の一節であるが、こういった教科書などを今あらためて読んでみると、忘れかけていた、素晴らしいことがたくさん書いてある。
文部省の教育も、捨てたもんじゃないなと思わされる。

対抗して、文を一つ。


人間には、二種類の美しさがある。

一つは、外見上の美しさ。
一つは、中身の美しさ。

前者は先天性で、どう頑張っても得られないものである。
後者は後天性で、努力によって得られるものである。

前者は生まれた後どう頑張っても得られないことから、希少性は高いだろう。
しかし、努力しないで得た美しさと、努力をして得た美しさでは、どちらが価値が高いのだろうか。

希少価値は、前者だ。
しかし、人間としての価値は、やはり後者ではないだろうか。
人間の価値として美しさを見た場合、外見上の美しさよりも、内面的な美しさの方がより美しい。

もっと言うなら、本当は「美しくなった」という結果が美しいのではなくて、「そのために努力する姿勢」が美しいのではなかろうか。

つまり、人の美しさとは、そこへ至る過程こそが美しいのである。
もともとある美しさに、本当の美しさは無い。


では、内面的美しさとはどのようなものか。

美しさを考えるのは困難だが、その逆の方法ならとれよう。
つまり、醜さを持っていないのが美しさだとは考えられないだろうか。

人間の醜さにも色々ある。
そのほとんどが、欲望によるものだ。
しかし、欲というものは誰でも持っており、それなくしては向上心は生まれない。
美しくなるというのも、もちろん「美しくなりたいという欲」がさせるものだろう。
だから、欲無くしては美しい人間にはなりえない。

では、どの程度までの欲なら許されるだろう。
醜い欲と醜くない欲とは、何が違うのだろう。

おそらくそれは、そのまま全てを表に出してしまうか、不必要なところは自分の内にしまっておくかの違いではなかろうか。

いろいろな欲を持っていても、それを自分の中にしまいこみ、その調節ができるなら、それは醜いとは言わないのではないだろうか。

車などの機械でも、一般的に中身を丸出しにしてしまうのは醜いとされる。
それと同じで、外から見て丸見えというのは、なんでも醜く見えてしまうのだろう。

だからその欲を、なんとか自分で調整しながら、必要なときには出して必要でないときにはしまう事ができる。それが、美しい条件なのではないだろうか。


という事は、結局、内面的に美しくなるために必要なのは、見極める目をもつことなのだろう。
自分がいつ出るべきで、いつ引くべきなのか。
これがわかる人間こそ、美しい人間なのではないだろうか。

「自分のやるべき事をやらない。
 自分の思う通りにならない時に、すぐに不平を漏らす。
 文句を言うだけ言って、自分ではそれを改善しようとしない。
 諦めるべきではないところで諦める。
 必要以上に自己顕示したがる。」

これらは全て、醜い。
どれもこれも、するべき事、言うべきタイミングが見えていないからだ。
やる事、やり方、その量、そしてやるタイミングをちょっと工夫すれば、これらは逆に醜く無い事へと変わるはずなのである。


いらないところでいらない事を言い、必要なところで必要な事をしない。
かたや、必要なときに必要な事を言い、いらないところでは余計な事はしない。
これが、美しさの分かれ目なのではないだろうか。

そして、そのような美しい人間を目指そうと、不満も言わず頑張っている人間こそ、真に美しいのである。

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