絶対相対

2002年7月24日
今学期の通知表から、成績を今までのような相対評価ではなく、絶対評価でつけることになった中学校がたくさんある。
つまり、人と比べてどうだったのか、ではなくてその人のレベルとしてどうだったのかを決めるという事だ。
茨城県の教育委員会では、この方針を今回の通知表から積極的に取り入れていくことに決まった。だから今回の中学生の通知表には絶対評価の評定がついている。

人と比べ過ぎる事。
これは、日本人の悪いところであり、それを止めるというのはとてもむずかしいことだ。
なんでも他人と比べずにいられない。
そして、他人と同じだということを美徳だと思い、自分と違う物を排除しようとする。

これを小さい頃の学校で教育するという事は、とてもいいことだろう。
ずっと他人と比べられてきた今までの子供達よりは、ずっと健全に育つのではないだろうか。

ただし、弊害として学力の低下は否めないだろう。
経済など他の分野にしてもそうであるが、競争とはそれを成長させるのには一番の方法だからだ。

結局、高校、大学と進学していくうちに必ず人と競い合う事になるのが今の社会である。
すると、当然人と自分を比べなくてはならなくなる。
そんなときに、競争心のない子供達は次々に敗れていくに違いない。

おそらく心の教育は、学力を犠牲にしてでないと成り立たないのだろう。


それにしても、人と自分を比べる事は、大きくなった人間ほどそれを頻繁に行うようである。
確かに他人をみなければならないことは多々ある。
他人のよいところを吸収しようという姿勢がなくては、自分の成長はないだろう。

しかし、人と自分とを比べる事は、見方を間違えるといろいろな感情を生み出す。

他人にはできるのに、自分には出来ない。
他人はいいのに、自分はダメ。
同じ人間なのに。

こんな嫉妬、妬みを生み出す可能性を多分に秘める。
これらは人間の中で一番醜い感情である。
自分のほうが優れている事だってたくさんあるというのに、それは棚の上において、自分の劣っているところばかりにしか見ていないからこういう感情がでるのである。
つまるところ、人は全てにおいて他人に勝っていないと満足できないのだろう。
とても醜い。

だから、人と自分とを比べるときは、見方を間違えてはいけないのだろう。
自分が人より劣っている事があるのは当然だ。自分が劣っている所は、相手から見れば自分が優れているところなのだから。
一人一人、向き不向きがあるからこそ、人は助け合う必要があるのである。

そして、人のいいところをうらやましがるのは悪いことではない。うらやましがってから、その後どうするかが重要なのである。
ただの嫉妬に走るか、それともそこを目指して自分を改善していくか。
自分はダメだ、で終わってしまっては、それはただの嫉妬で終わってしまう。
そこでいろいろと言い訳をして、自分がダメなのを正当化するのではなく、そこで我慢して、その先を、理想の自分を求める事が重要なのではないだろうか。

自分が劣っていることを理不尽に感じることもあるが、そうして向上心を忘れなければ、他人と自分とを比べる事は自分を成長させる大きなヒントになる。

そして、比べる事により自分の悪い点ばかりでなく、よい点も見つけてあげるべきである。
悪くばかり言っていては、たった一人の自分がかわいそうだから。

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