正しい道と人の心と

2002年7月22日
自分は人の好き嫌いが激しい人間なので、人を嫌いになることに関しては何も言えないし、言うつもりもない。
しかし、いくら嫌いな人間であっても、楽しくやるときは楽しくやるし、困っているときは助ける。

それが、当たり前の事だと思っている。

大事にしたい人と、どうでもいい人がいる。
でも、いくら好きだからといって、どうでもいい人を犠牲にしてまで好きな人と遊ぶ気にはならない。
困っている人は困っているのである。
例えそれが嫌いな人であっても。

困っている人は、誰かが助けなければならない。
それが嫌いな人であったとしても、
例えその人が悪いのだとしても、
困っている人を助けるのに理由がいるだろうか。


仲間がいるということは、素晴らしい事だ。
そして自分の味方となってくれる人を作ることも大切な事だ。
仲間がいるということは、それらを信頼させる事をしてきた証なのだから。

しかし人は、仲間がいることの喜びは理解しているくせに、仲間がいないことの悲しみは考えない。
それを考えるのはとても簡単な事だ。
ただ自分に仲間がいなかったときを考えてみればいいのだから。
それらは、裏と表なのである。
片方が理解できれば、もう片方も容易い。
仲間のいる喜びが分かる人間は、仲間のいない人の悲しみも理解できるはずなのである。

なのに、そうしようとしない人はたくさんいる。
自分のことしか見えていない。
自分たちの気持ちばかり押し出して、人の気持ちまで考えようとはしない。
どうしてそんなことができるのだろう。

人の心がわかっている人間は、多対一なんていう真似ができるはずがない。
それに荷担する事もできるはずがない。
だから自分は、例え間違っているのがそっちだとしても、弱い方を援護したくなる。
それは間違った感情だろうか。

もちろん客観的に見て間違っている事は、間違っていると正すだろう。
しかし、そっちが間違っているから、人が嫌いだから違う方に味方しよう、という考えはしないだろう。
いつでも、弱い方を援護したくなる。
それは誤りだろうか。

自分には、間違ってしまい周りから責められている人の辛さが良くわかる。
それは当然だ。
なぜなら、自分だって失敗するのだから。
自分だって間違っている事があるかもしれないのだから。
そんなとき、周りに一斉に責められたら、自分ならこの上なく苦しい。
自分自身が悪いのならなおさらである。

そしてそんなとき、自分をフォローしてくれる人がいると、とても楽になる。
その人に、感謝する。
とてもありがたいと思う。

だから自分は、弱いものにはフォローをしてあげたいと思う。
そっちが間違っていたとしても。

だから自分は、大人数の方について戦う事はあまりしない。
そっちは助ける必要が無いのだから。


人は、弱い。
1人じゃ何もできないし、何も言えない。
すぐ人を疑うし、すぐ怒る。
だからこそ、人は他人を守るように生きていかなければならないのではないのか。
だからこそ、すぐ疑い、すぐ怒るとてもちっぽけな人の気持ちを考えて生きていかねばならないのではないのか。
そうして自分を抑えてでも他人を幸せにしてこそ、自分もまた幸せになれるのではないのか。


なのになぜ人の気持ちを考えようとしない?
なぜそうして正しいか正しくないかだけで、人を容赦なく多対一で攻撃できる?
なぜ自分の幸せを最優先にできる?
自分の思う正しい事なんてものは、所詮何の保証もありはしないというのに。

相手が悪ければ、相手の気持ちは考えないというのか。
手を差し伸べてもやらないというのか。

そんなに自分の幸せが大事か。

そんなに自分たちのことしか見えないか。

人を傷つけて得た幸せに、価値なんてありはしないというのに。

そんな人間、自分には理解できない。

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