死
2001年7月20日死というものは、突然に訪れる。
それこそ、何もなかったかのように。
一番記憶に新しい親戚の死は、中学生のときの父方の祖父の死。
自分は他のいとこ達より若干遅く生まれたので、特にいろいろと世話になった(親戚に言わせれば、おじちゃんのおもちゃだったらしいが)という事もあり、亡くなったときには涙が止まらなかった。
小学校高学年くらいからは、もう親戚の家に行くこともまばらになり、中学校になってからは祖父と話をする事すらほとんど無くなっていた。
亡くなった時は思った。
もう少し、もう少し話しておけばよかったかな。
家の祖父は、俺の実家のある某市が発展期だった頃商人として街の発展に一役買った人だった。
俺の地元は古い小さな町であるが、その世代で祖父を知らないものはほとんどいない。
当時では珍しく放任主義であり、
俺の父親が東京にでてバンドをやりながら暮らす事にも、反対一つしなかったという。
父親に言わせれば「構ってないだけ」らしいが、あの時代に子供にそこまで自由にやらせてあげる親も珍しかったんじゃないのかな、と思う。
大きい車に乗るのが好きで、(トラックとかではなくシーマとかクラウンとかああいう大きいやつ)よく小さい俺を乗せていろいろなところへ行った。
いろいろとお世話になった。
あの人は、俺の誇りである。
その祖父が亡くなったとき、俺は死についていろいろと考えた。
祖父は死ぬ時、たくさんの人を泣かせた。
人を泣かせる死とは、良いものなのだろうか。
死ぬ時、それは人生の終着点である。
その人が生きてきて、その歩みが止まる最初で最後の時だ。
ある人が言った言葉がある。
「人生の価値とは、死ぬ時に流させた涙の数で決まる」
それは、ある意味当たっているのかもしれない。
自分の死を悲しんでくれる人の数、
自分のために涙を流してくれる人を何人作ったかで、その人の人生が良いものであったのか、それともそうでなかったのかが決まるのかもしれない。
人生の価値とは、どれくらい他人の中に踏み込めたかによるのかもしれない。
他人の中に、どれくらい自分という足跡をつけられたか。
どれくらい深く自分というものを刻んでこれたのか。
人生の価値の一つは、それで決まるもかもしれない。
そしてそれは、死が訪れるときに答えが出る。
他人を泣かせないような死も良いかもしれない。
猫のようにひっそりと死を迎えるのも。
しかし俺は、自分が死んだ時くらい人を泣かせてもいいと思う。
物の価値は、無くなってどのくらい困るかで量れる。
自分というものの価値は、自分がいなくなることをどのくらい残念がってもらえるかで量る事が出来る。
それは、流してもらった涙の数に比例する。
自分が死んだらいったい何人の人が悲しんでくれるのだろうか。
そもそも、悲しんでくれる人はいるのか?
それは死んでみなくては解らないが。
死の瞬間、それは人生の価値を知る唯一の機会なのかもしれない。
それこそ、何もなかったかのように。
一番記憶に新しい親戚の死は、中学生のときの父方の祖父の死。
自分は他のいとこ達より若干遅く生まれたので、特にいろいろと世話になった(親戚に言わせれば、おじちゃんのおもちゃだったらしいが)という事もあり、亡くなったときには涙が止まらなかった。
小学校高学年くらいからは、もう親戚の家に行くこともまばらになり、中学校になってからは祖父と話をする事すらほとんど無くなっていた。
亡くなった時は思った。
もう少し、もう少し話しておけばよかったかな。
家の祖父は、俺の実家のある某市が発展期だった頃商人として街の発展に一役買った人だった。
俺の地元は古い小さな町であるが、その世代で祖父を知らないものはほとんどいない。
当時では珍しく放任主義であり、
俺の父親が東京にでてバンドをやりながら暮らす事にも、反対一つしなかったという。
父親に言わせれば「構ってないだけ」らしいが、あの時代に子供にそこまで自由にやらせてあげる親も珍しかったんじゃないのかな、と思う。
大きい車に乗るのが好きで、(トラックとかではなくシーマとかクラウンとかああいう大きいやつ)よく小さい俺を乗せていろいろなところへ行った。
いろいろとお世話になった。
あの人は、俺の誇りである。
その祖父が亡くなったとき、俺は死についていろいろと考えた。
祖父は死ぬ時、たくさんの人を泣かせた。
人を泣かせる死とは、良いものなのだろうか。
死ぬ時、それは人生の終着点である。
その人が生きてきて、その歩みが止まる最初で最後の時だ。
ある人が言った言葉がある。
「人生の価値とは、死ぬ時に流させた涙の数で決まる」
それは、ある意味当たっているのかもしれない。
自分の死を悲しんでくれる人の数、
自分のために涙を流してくれる人を何人作ったかで、その人の人生が良いものであったのか、それともそうでなかったのかが決まるのかもしれない。
人生の価値とは、どれくらい他人の中に踏み込めたかによるのかもしれない。
他人の中に、どれくらい自分という足跡をつけられたか。
どれくらい深く自分というものを刻んでこれたのか。
人生の価値の一つは、それで決まるもかもしれない。
そしてそれは、死が訪れるときに答えが出る。
他人を泣かせないような死も良いかもしれない。
猫のようにひっそりと死を迎えるのも。
しかし俺は、自分が死んだ時くらい人を泣かせてもいいと思う。
物の価値は、無くなってどのくらい困るかで量れる。
自分というものの価値は、自分がいなくなることをどのくらい残念がってもらえるかで量る事が出来る。
それは、流してもらった涙の数に比例する。
自分が死んだらいったい何人の人が悲しんでくれるのだろうか。
そもそも、悲しんでくれる人はいるのか?
それは死んでみなくては解らないが。
死の瞬間、それは人生の価値を知る唯一の機会なのかもしれない。
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