人の本性は
2001年5月9日昔の人が唱えた事に性悪説と性善説というものがある。
性悪説とは、人間の本性は悪であるという考え方だ。
人は、自然状態に置かれると、罪を犯す。
何も制約がないならば、罪を犯す。
罪を犯さないように、法でそれを縛る。
だから人間の本性は悪なんだそうだ。
対して性善説とは、本性は善であるという考え方である。
人間には、どんな人にも人を思う心がある。
川で溺れている人を見ると、助けなければ、という気持ちが生ずる。
泣いている子供を見ると、可愛そうに、という気持ちが生ずる。
見返りを期待して、とかではなく、直感的にそう思う。
だから人間の本性は善なのだそうな。
どちらももっともらしい。
どちらが正しいのだろう。
そもそも、善とか悪とかは人間が作った枠に過ぎない。
何が良い事で、何が悪い事だ、というのも人間が決めた事だ。最初から決まっていたわけではない。
ならば、性悪説の言うように「人間が自然状態で悪を行う」とするより、「人間が自然状態で行うものを悪と定めた」の方が正しいのではないか。
自然状態で行うものを悪と定めたならば、人間の本性が悪なのは仕方がないことである。
しかし、それを「悪い」とは言えないだろう。
最初から「悪」という概念があったわけでなく、後からつけたものなのだから、それを考えてどうこう言っても仕方がない。
それならば、自然状態で悪を行うから、という理由では人間の本質は計れないことになる。
では、性善説か。
しかし、残念ながら、世の中には慈悲の心を持たない人間もたくさんいる。
困っている人を助けなくとも平気な顔をしているやつがいる。
人を傷つけても平気な顔をしているやつがいる。
吐き気がするが、それは、確かな事だ。
そうすると、人間は本質的に善だ、というのもあやしくなってくる。
本当はどっちなんだろう。
そもそも、本質的に善か悪かは決まってないのではないだろうか。
善悪は生まれてから身につくものであり、体に刷り込まれる事だ。
あれをやって悪かったな、というもの生まれてから思わされる事だ。
善と悪の区切りは何か。
俺は、悪とは「人に迷惑のかかること」だと思う。
人に悪影響を与えてこその悪だ。
例えば自殺。
人には影響はない。
よって、一概に悪だとは思はない。
ただし、それによって悲しむ人がいるとすれば、それは悪と言えるだろう。
では、善の定義とは何か。
悪の反対、人にいい影響を与える事だろうか。
それは違う。
人にいい影響があるからといって、それを全て善とは言わない。
善とは、自分以外を思いやる事だろう。
自分への影響とか、その他考え無しに他人の事を思いやる心。
人の立場になって、それを自分の事のように考えられる事。
結果的に、人にいい影響が与えられる。
それを人は善と呼ぶ。
悪の反対ではない。
言葉として善の反対は悪である。
しかし、本質的には善の反対は悪ではない。
それならば、善でないなら悪、というのは成り立たないのではないだろうか。
善か悪か、という問いかけ自体間違っているのかもしれない。
善であり、悪である、というのが人間の本質なのだろう。
両者は共存する。
悪い人とは、悪い事をする人の事ではなく、善悪の基準が人とずれている人を言うのかもしれない。
それはすなわち、住んでいる世界が違うという事だ。
それを、普通の基準を持った人が裁こうとしてもうまくいくはずない。
悪人に対する罰が軽い、と感じるのはそのせいではないだろうか。
もし、人の基準を知る事のできるものがあるとしたら、適切な罰を与える事ができるのであろう。
目には目を。
悪と善は対ではない。
しかし、悪人と善人は共存できない。
いや、してはいけない。
願わくば、人の全てが善であって欲しいものだ。
性悪説とは、人間の本性は悪であるという考え方だ。
人は、自然状態に置かれると、罪を犯す。
何も制約がないならば、罪を犯す。
罪を犯さないように、法でそれを縛る。
だから人間の本性は悪なんだそうだ。
対して性善説とは、本性は善であるという考え方である。
人間には、どんな人にも人を思う心がある。
川で溺れている人を見ると、助けなければ、という気持ちが生ずる。
泣いている子供を見ると、可愛そうに、という気持ちが生ずる。
見返りを期待して、とかではなく、直感的にそう思う。
だから人間の本性は善なのだそうな。
どちらももっともらしい。
どちらが正しいのだろう。
そもそも、善とか悪とかは人間が作った枠に過ぎない。
何が良い事で、何が悪い事だ、というのも人間が決めた事だ。最初から決まっていたわけではない。
ならば、性悪説の言うように「人間が自然状態で悪を行う」とするより、「人間が自然状態で行うものを悪と定めた」の方が正しいのではないか。
自然状態で行うものを悪と定めたならば、人間の本性が悪なのは仕方がないことである。
しかし、それを「悪い」とは言えないだろう。
最初から「悪」という概念があったわけでなく、後からつけたものなのだから、それを考えてどうこう言っても仕方がない。
それならば、自然状態で悪を行うから、という理由では人間の本質は計れないことになる。
では、性善説か。
しかし、残念ながら、世の中には慈悲の心を持たない人間もたくさんいる。
困っている人を助けなくとも平気な顔をしているやつがいる。
人を傷つけても平気な顔をしているやつがいる。
吐き気がするが、それは、確かな事だ。
そうすると、人間は本質的に善だ、というのもあやしくなってくる。
本当はどっちなんだろう。
そもそも、本質的に善か悪かは決まってないのではないだろうか。
善悪は生まれてから身につくものであり、体に刷り込まれる事だ。
あれをやって悪かったな、というもの生まれてから思わされる事だ。
善と悪の区切りは何か。
俺は、悪とは「人に迷惑のかかること」だと思う。
人に悪影響を与えてこその悪だ。
例えば自殺。
人には影響はない。
よって、一概に悪だとは思はない。
ただし、それによって悲しむ人がいるとすれば、それは悪と言えるだろう。
では、善の定義とは何か。
悪の反対、人にいい影響を与える事だろうか。
それは違う。
人にいい影響があるからといって、それを全て善とは言わない。
善とは、自分以外を思いやる事だろう。
自分への影響とか、その他考え無しに他人の事を思いやる心。
人の立場になって、それを自分の事のように考えられる事。
結果的に、人にいい影響が与えられる。
それを人は善と呼ぶ。
悪の反対ではない。
言葉として善の反対は悪である。
しかし、本質的には善の反対は悪ではない。
それならば、善でないなら悪、というのは成り立たないのではないだろうか。
善か悪か、という問いかけ自体間違っているのかもしれない。
善であり、悪である、というのが人間の本質なのだろう。
両者は共存する。
悪い人とは、悪い事をする人の事ではなく、善悪の基準が人とずれている人を言うのかもしれない。
それはすなわち、住んでいる世界が違うという事だ。
それを、普通の基準を持った人が裁こうとしてもうまくいくはずない。
悪人に対する罰が軽い、と感じるのはそのせいではないだろうか。
もし、人の基準を知る事のできるものがあるとしたら、適切な罰を与える事ができるのであろう。
目には目を。
悪と善は対ではない。
しかし、悪人と善人は共存できない。
いや、してはいけない。
願わくば、人の全てが善であって欲しいものだ。
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