価値
2001年2月20日久しぶりに更新。
この間の日記をつけていない、とも言えるけど、日記をつけられなかった日には、共通するあるひとつの状況があった訳で、日記を見るとその日が分かるから、つけていないのも日記かな、と。
今日は大学の集中講義というものを初めて受けた。
本来半年間でやる授業をたったの四日間でやってしまおうというすばらしい企画。
内容は原子力エネルギーについて。
内容もさることながら、集中講義自体に興味があったので、受けてみた。
初めての経験。
なっとう氏と一緒に受けた。
友達と一緒に講義を受けると集中力が欠けるので、皆でわいわい言いながら受講するのは嫌い、といった「すれた」考え方を持っている自分にとっては、これもめずらしいこと。
別に、友達がちょっかいを出してくるのが嫌なのではなく、自分がちょっかいを出したくなるから。
実際今日も、自分がちょっかいをだしていたような。邪魔だったらごめんなさい。
今日は、二年前に臨界事故を起こした、とある県のとある村の村長さんと以下二名の職員の方々が来て、講義をしてくれた。
内容については、期待していたよりずっと社会システム的な話(専門的な話を期待していたが)だったが、ま、教養の授業で、文系の方々も沢山受講していたから仕方ないか。
その中で思ったのが、「この村長結構やり手だ」ということ。
上部の人間は、漠然としすぎて分かってるんだか分からないんだか、みたいな話をする人が多いが、この人はきちんと勉強している感じで、分からない事は分からないと言う。いい印象を受けた。
なぜいい印象を受けたのだろう。
能力があるからか。
違う。
能力のある点に対して俺は人間的価値を認めない。
能力のある人間に対して抱くのは、その能力に対する尊敬であり、人間に対する尊敬ではない。
少なくとも、そう思うようにしている。
確かに、その能力を身に付ける過程において尊敬すべき点はあるとは思うが、それを直接人間的価値に結びつける考え方を、俺はしない。
例えば、プロサッカー選手は皆人間的価値が高いのか、皆尊敬に値するのか、といったらそれはNOだ。
人間の価値は能力によって決まるのではない。能力による価値など、どの道具が使えるか、といった価値判断と何ら変わりは無い。
人の価値はその人の人間性によって決まる、と俺は思っている。人間性にはいろいろ要素があると思うが、まとめて見るなら、それは対人の交流方法と見る事ができる。
簡単にいえば、人から見て「いいひと」は価値が高い。
性格が穏便だ。信頼ができる。おもしろい。いい人にもいろいろあり、一概にまとめる事は不可能だろう。
だが、共通してないものはある。
人に不快感を与える事。
道徳上問題のある行為をしたり、マナー違反をする人間を、人は決していい人とは言わない。
誠実さ、優しさが欠落した人間には、いくら能力があっても人間的価値は認めない。
人を傷つけて平気な顔をしている人間に、価値などあるものか。
人を泣かせて平気な顔をしている人間に、価値などある訳が無い。
人を思いやる行為にこそ、人間的価値はついてくるものだ。
何かができる。すごい人だ。じゃあその人は尊敬に値するかといったら、そうとは限らないだろう。
誠実さが無い。思いやりが無い。
何かに関してはいくらすごくても、尊敬に値しない人間はいくらでもいる。
いい人だけど能力が無い、という人間の方が、遥かに人としての価値はある。俺はそう思う。
今日の村長さんにいい印象を受けたのは、そういう人間的価値を認めたからだろう。
事態に対する真剣な取り組み、それに関する勉強。どこぞの総理さんにも見習って欲しいものだ。
自分に対し適当なのはいい。でも、決して他人が絡む問題に適当になってはいけない。
自分が見ていて不快だから。
人間的価値の無い人は、見ているのも嫌だから。
誠実さの無い人や他人を傷つけるような人には、同じ世界にいて欲しくないから。
だから俺は、価値のある人間になる。
理由はそれだけ。
この間の日記をつけていない、とも言えるけど、日記をつけられなかった日には、共通するあるひとつの状況があった訳で、日記を見るとその日が分かるから、つけていないのも日記かな、と。
今日は大学の集中講義というものを初めて受けた。
本来半年間でやる授業をたったの四日間でやってしまおうというすばらしい企画。
内容は原子力エネルギーについて。
内容もさることながら、集中講義自体に興味があったので、受けてみた。
初めての経験。
なっとう氏と一緒に受けた。
友達と一緒に講義を受けると集中力が欠けるので、皆でわいわい言いながら受講するのは嫌い、といった「すれた」考え方を持っている自分にとっては、これもめずらしいこと。
別に、友達がちょっかいを出してくるのが嫌なのではなく、自分がちょっかいを出したくなるから。
実際今日も、自分がちょっかいをだしていたような。邪魔だったらごめんなさい。
今日は、二年前に臨界事故を起こした、とある県のとある村の村長さんと以下二名の職員の方々が来て、講義をしてくれた。
内容については、期待していたよりずっと社会システム的な話(専門的な話を期待していたが)だったが、ま、教養の授業で、文系の方々も沢山受講していたから仕方ないか。
その中で思ったのが、「この村長結構やり手だ」ということ。
上部の人間は、漠然としすぎて分かってるんだか分からないんだか、みたいな話をする人が多いが、この人はきちんと勉強している感じで、分からない事は分からないと言う。いい印象を受けた。
なぜいい印象を受けたのだろう。
能力があるからか。
違う。
能力のある点に対して俺は人間的価値を認めない。
能力のある人間に対して抱くのは、その能力に対する尊敬であり、人間に対する尊敬ではない。
少なくとも、そう思うようにしている。
確かに、その能力を身に付ける過程において尊敬すべき点はあるとは思うが、それを直接人間的価値に結びつける考え方を、俺はしない。
例えば、プロサッカー選手は皆人間的価値が高いのか、皆尊敬に値するのか、といったらそれはNOだ。
人間の価値は能力によって決まるのではない。能力による価値など、どの道具が使えるか、といった価値判断と何ら変わりは無い。
人の価値はその人の人間性によって決まる、と俺は思っている。人間性にはいろいろ要素があると思うが、まとめて見るなら、それは対人の交流方法と見る事ができる。
簡単にいえば、人から見て「いいひと」は価値が高い。
性格が穏便だ。信頼ができる。おもしろい。いい人にもいろいろあり、一概にまとめる事は不可能だろう。
だが、共通してないものはある。
人に不快感を与える事。
道徳上問題のある行為をしたり、マナー違反をする人間を、人は決していい人とは言わない。
誠実さ、優しさが欠落した人間には、いくら能力があっても人間的価値は認めない。
人を傷つけて平気な顔をしている人間に、価値などあるものか。
人を泣かせて平気な顔をしている人間に、価値などある訳が無い。
人を思いやる行為にこそ、人間的価値はついてくるものだ。
何かができる。すごい人だ。じゃあその人は尊敬に値するかといったら、そうとは限らないだろう。
誠実さが無い。思いやりが無い。
何かに関してはいくらすごくても、尊敬に値しない人間はいくらでもいる。
いい人だけど能力が無い、という人間の方が、遥かに人としての価値はある。俺はそう思う。
今日の村長さんにいい印象を受けたのは、そういう人間的価値を認めたからだろう。
事態に対する真剣な取り組み、それに関する勉強。どこぞの総理さんにも見習って欲しいものだ。
自分に対し適当なのはいい。でも、決して他人が絡む問題に適当になってはいけない。
自分が見ていて不快だから。
人間的価値の無い人は、見ているのも嫌だから。
誠実さの無い人や他人を傷つけるような人には、同じ世界にいて欲しくないから。
だから俺は、価値のある人間になる。
理由はそれだけ。
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