カリスマ

2001年2月14日
さくらさん、お気に入り追加ありがとうございます。
ばしばし書くつもりなので、読んでやってください。

今日は大学の学生部とのミーティングがあった(サークルのお仕事)。
そこで、中間管理職のM氏とお話した。

かっこいい。
なんというか、こう、信頼できる。
言っていることが分かるし、こちらの言っていることもよく理解してくれる。
筋道を立てて、こうこう、こうだからこうなんだよ、と言ってくれる。

よい人だ。
どこぞの、なにを言ってるのかわからない教師達よりよっぽど学べるものが多い。
ああいう人ばかりだったなら、どんなに日本がよくなったことか。
あのカリスマ性は、どこからくるのか。

人の社会の根底は、コミュニケーションだろう。
コミュニケーションをとれずして、人の社会は成り立たない。
しかし、その基本ができていない人間が多い。
こちらの言ったことが、なかなか伝わらない。もしくは、あちらの言っていることが理解できない。
コミュニケーションが取れない人とは、どうやっても分かり合えない。

では、どうして、コミュニケーションが取れる人間と取れない人間が出てくるのだろう。

能力の問題もあるだろう。コミュニケーションをとるのが苦手な人。ちょっと変わっていて、皆とすれ違ってしまう人。
しかし、自分は苦手でも、その人と気の合う人も必ずいる。
どうしてか。

それは目線の問題だろう。
目線が同じ人とは、気が合うものだ。
逆に、目線のあわない人間とは、コミュニケーションがとりにくい。

目線と言うのは、人それぞれ、初めから決まっている。でも、人は目線を変える事ができる。
変えようと意識すれば。

目線を変える努力をしてくれる人とは、コミュニケーションがとりやすい。では、どちらが目線を変えるのか。
それは年長者の仕事だろう。年長者が目線を下げる事は簡単だが、下のものが目線を上げるのは容易ではない。

カリスマ性が高い人は、その柔軟性を持っている人だ。こちらが若いからといって、適当に扱ったりはしない。きちんとこちらに合わせて話をしてくれる。

子ども扱いされるのが嫌なわけではない。
それは自分の経験が少ないのだから、仕方が無い。
でも、だからといって、子供だ、とか学生だ、とかいう理由で、頭から軽い扱いをしてくる人とは目線は合わない。絶対に。

M氏には、それがある。人とのコミュニケーションをとるのが上手い。それがカリスマとして生きているのだろう。

俺の好きな先生に高校の部活の顧問のN先生がいる。このひとも、コミュニケーションをとるのが上手い。年は四十過ぎだが、十代の生徒と対等に渡り合える。すばらしい先生だ。

大人は古い考え方をするから、子供とコミュニケーションがとりにくいと思われがちだが、実際、そんなことはない。N先生は、制服はきちんと着ろ、学問優先、その他いろいろなことを言う人だった。怒るときは平手打ちがとんだ。でも、誰もその先生を嫌う人はいなかった。怒られた事がある人でさえも。

問題は考え方ではない。目線を合わせる「気」があるかどうかだ。それでコミュニケーションのとりやすさは変わる。

上手なコミュニケーション、若干の笑顔、それとほどほどの自信。これらがカリスマのもとだろう。

いままで、自分が若い事もあり、コミュニケーションをとらねばならない相手は上の人間だった。しかし、これから年をとるにつれて、下とのコミュニケーションも多くなるだろう。その時果たして、今時分が言っているようなことができるのか。
自分が目線を合わせてやれるのか。

人は親になると、子供のころ親にさせられ嫌だった事を子供にもしてしまうらしい。
自分が嫌だった事も忘れて。

将来の事は保証できない。しかし、決意はある。
問題はいつまでこの心を持ちつづけられるかだ。

「LIke a child」

そう、大人になっても子供のように、いまの精神を維持する。

むずかしいいことだ。

でも、今日あの人に憧れた事を、俺は忘れない。

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